第44話「大原利鎌か大久保利兼...はたまた大原利謙?」 


「大原利鎌」と「大久保利兼」...

岡山で最初にコーヒーを飲んだ人を探し求めて各種文献をあたった結果、この2人が浮かび上がってきた。
しかし、そのどちらにも東山にやってきた医者ロイトル・ボードウィンが絡んでいることから、この二人に可能性があるというよりも、どちらかの情報が何らかの要因で間違えて伝えられているのではないだろうか?

そんな思いを胸に、その真実を求めて再度、岡山県立図書館へと向かった...
それにしても今日は18日、お盆もそろそろ終わりなのにこの暑さ、なんとかしてくれ〜
でも図書館は涼しくて天国天国...


「まず、岡山事物起源の参考資料として掲載されている資料をあたって、どこから大久保利兼という名前を引っぱり出したのか調べてみることにするよ!」

そういってタカシは検索画面に向かった。

しかし、残念ながら参考図書11冊の資料のどこからも、コーヒーの話しを見つけることはできなかった。結局、岡山事物起源に紹介されている、大久保利兼という名前がどこからのものなのかを探せないのだ。

ロイトル・ボードウィンの話しは、いろいろと出てくるが、コーヒーの事は出て来ない。

唯一、「岡山商工会議所100年史」という本の中に、大久保利兼という名前で岡山のコーヒー一番飲みと紹介されているのを見つけたが、これは岡山事物起源を参考としたものであった。

郷土資料館のそれらしい資料を片っ端からあたってみたが、岡山最初のコーヒー飲みに関する情報は結局、「岡山始まり物語」「岡山事物起源」「岡山の食文化史年表」「岡山商工会議所100年史」の4冊にしか見当たらなかった。

視点を変えて、人物名から調べて見ると......

郷土資料室に置いてある様々な人物事典の中で「岡山県歴史人物事典」そして「岡山市史(人物編)」の2冊に、「大原利謙」という人物が載っていた。

またまた、良く似ているがちょっと違う.....大原利鎌、大久保利兼、
そして新たに大原利.....?

人物事典に載っている「大原利謙」を抜粋して紹介すると.....


大原利謙(おおはら りけん)

郷土史家。はじめ清次郎、源左衛門、謙次などを名乗り、のち利謙と改名。1860年大原の養子となる。軍学を牧野権六郎、漢学を田口江村、広瀬淡窓、洋学を児玉順蔵に学ぶ。中年以後、旧藩主池田侯爵家に仕えて家務をつかさどり、閑谷学校周辺の保持と保存に実績を挙げ、あわせて修史に従事し、最も郷土史に精通していた。
                  「岡山県歴史人物事典」:山陽新聞社編より

前述の4つの資料に共通しているのは、最初に飲んだ人物がロイトル・ボードウィンの通訳であったことである。オランダ人の通訳ができるということは、当時洋学に明るくなくてはならず、この大原利謙も児玉順蔵に洋学を学んでいる。

岡山経済文化史という書物に、児玉順蔵の門下生の一覧があった。

はたして、その中には大原も大久保も出て来なかった。
しかし、よくよく見ると、奥江一蔵という人の肩書きに『後の大原利謙。池田家家史編纂掛』と記されていた。児玉順蔵はシーボルト直属の門下生であり、大原利謙は当時最高の洋学の先生を得ていたことになる。
そして、当時岡山で児玉順蔵の門下生以外でオランダ語の通訳ができる人材が育ったとは考え難いのである。

さらに、岡山で影響力のある活動を行なった(コーヒーを持ち込む可能性があった)最初の外国人は、まちがいなくロイトル先生であり、ロイトル先生のふるまったコーヒーが岡山の地で最初のコーヒー体験であったとする言い伝えは、説得力がある。

残念ながら、ボードウィンの通訳でコーヒーを初めて飲んだ人としての新たなる証拠資料を見つけることはできなかったが、以上の状況より「大原利謙」が岡山最初のコーヒー飲みであり、「大原利鎌」「大久保利兼」は、「大原利謙」の記述違いである可能性が非常に高いと思われる。

「こんなところやね〜、どうラッキー、真実はおそらくこんなところやろ...?」

「そうでんな〜、まあ、歴史なんちゅうもんはある種の伝言ゲームみたいなもんで、どこかで間違って伝わったらその後はず〜と間違い続けて、それが真実になっていくんやろね〜。まあ、タカシの発見ちゅ〜か問題認識はなかなかのもんやったね。わても、大原利謙が最初のコーヒー飲みやと思いますわ!」

てな訳で、自分なりに結論を出して見ました。
今回の調査中に、ボードウィン先生の岡山ドタバタ劇に関する資料を見つけました。
当時の岡山の人々の様子を知る上でも興味深かったので、ちょこっとだけ紹介させていただきます。
その資料とは「岡山今と昔 話しの散歩」。
またまた岡長平さんの著作です。
本当に岡長平さんは郷土の歴史を入念に調べられており、その功績は誠に多大なものであると感激します。

その一節は「光は東山から」という章の中にみつけられる.....

ボードウィンという和蘭の医者が、脈をとろうというのだ。しかし、ただの一人も患者が来ない。それは、医学校になっていた三軒寺の格嚴字で、岡山最初の腑捌(解剖)をやったのが、どう流言されたか「今来とる異人は、生き血をとるそうじゃ。」という噂がたったのだから、病人の来そうなはずがない。その寺の一室にボードウィンは泊まっていたが、毎日障子の張り替えをせねばならぬぐらい、「覗き見」が忍んでくる。その番人が、まず熱心に覗いているのだから察するに余りがある。葡萄酒でも飲んでいると、それ、生き血を美味そうに飲んどる......、などの評判に尾に尾がついて、とうとう、「目玉幸」と仇名されたヤクザが、市民の為に此の吸血異人を生かしてはおけないと、裸体で抜身をさげて乗り込む、という大騒動から、3年の約束を1年足らずで、大阪へ逃げ出す、という一席があるのだが、あるいは、かくれた事実かもしれない。
            「岡山今と昔 話しの散歩」:岡長平著 日本文教出版社株式会社発行より

いかがですか?

当時の岡山人の西洋医学や異人さんとの、今から見れば微笑ましくも思える光景が浮かんで来ます。


さてさて、次に知りたいのは、岡山で最初にコーヒーをふるまったお店屋さん、そして西洋のコーヒーハウスのように文化発祥の場所として当時のあたらしモノ好きが通いつめたであろう岡山最初の本格コーヒーハウスの物語である。

郷土資料館で資料を貪っていた私の目に「カフエー発祥の地 内山下思い出すまま...」という目次の文字が目に飛び込んできた........

 


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岡山で最初にコーヒーで商売を始めた人はどんな人でどんな思いで始めたんだろう?
どんな名前の店で、どこにあったんだろう? はやったのかな?おいしかったのかな?

次回は、そんな疑問に完全にお答えいたします!!