第46話「岡山ドリルクラブ」


岡山で最初の喫茶店は「広瀬ミルクホール:明治40年」ということがわかった。
しかし、岡山にコーヒーが紹介された明治3年から、37年もの長い間庶民に全く
コーヒーが普及しなかったとは思えなかった。                
少なくとも、喫茶店としてではなく食堂のような形態でコーヒーを販売していた店
があるのではないかと考えて、もう少し岡山の珈琲物語を調べてみることにした。



「ねえラッキー... 最初は食堂で珈琲をふるまったと思わない...?」

「せやね〜...けど、食堂言うても、日本料理とコーヒーではちょっと変やね」

「だから、西洋料理屋がそのころあったかどうかを調べたんだ」

「で〜...?」

「岡山盛衰記という本に面白く書いてあったんだ。それによると、こんな感じなんだ...」

野田屋町の伏見多喜蔵が思いつきで明治12年4月15日に西洋料理屋『交楽亭』を開店。
これが岡山県の西洋料理店の最初であった。1年以内に閉店。
やはり、その年の8月16日に可眞町にて高橋達男が『開新櫻』を開店。
開店祝に招待された新聞記者が酔っ払ってフォークで舌を刺し、「西洋料理は美味なれども、危険なり」と評したという。高価なこともあって1年たたずして閉店。
当時の広告に料金が載っている。
上等:40銭、並:25銭 日本料理より割高だった。

明治19年、『衛生軒』が開店。
広告をみると、一皿4銭、一等60銭、並40銭、3等30銭、ビール20銭、酒5銭とある。
だいぶん、大衆に接近してきたことがうかがわれる。
                       
「岡山盛衰記」岡長平著 研文館吉田書店発行 P-167より

「コーヒーのことが出てまへんな〜...」

「実はみつけたんだ!」チョット自慢げに...

「どこやねん.....いつやねん?!」

「それは、岡山最初のホテル『岡山ホテル』にまつわる話の中で出て来るんだ...
 岡山ホテルの情報は、『岡山盛衰記』『岡山今と昔 話しの散歩』そして『岡山始まり物語』のすべて岡長平さんの著書に見つけることができるんだけど、その岡山ホテルの設立年月日については、なぜかバラバラなんだ。

 岡山盛衰記  : 明治35年9月10日
 岡山今と昔  : 明治32年5月10日
 岡山始まり物語: 明治31年2月

設立年月日に関してはこの3通りが残ってるんだけど、この資料以外に見つからないので、どれが正しいのかわからないんだ...でも、この日付以外の内容はほとんど共通してるから、岡山の珈琲物語としてまちがいないと思うよ!」

「それは、どんな話しなの?」

「じゃ〜、3つの資料をまとめて説明することにするよ...こんなふうに書かれてるんだ...

岡山ホテルという堂々たる西洋館が、今の白鳥座のところに出現して可眞町が急に明るくなったものだ。(テアトル岡山のあたり)木造だったが岡山には珍しい洋館2階建てで、表のガラスごしに広いロビーがみえ、そこにはビリヤード台があり、正面の一段高いサロンの奥にはピアノが見えるというもので、当時の岡山の人々の足を止めさせ目をみはらせ耳をそばだたせたものだった。2階が食堂と寝室で、寝室はベッドだった。図書室まであり音楽関係の本がいっぱいつまっていた。食堂には神戸オリエンタルホテルから雇ったコックが手練の腕前を見せ、岡山には全く過ぎたものであった。

ここを始めたオヤジ(オーナー)を、加川力(カガワツトム)といった。
この男、「音楽50年史」にも出れば、「明治大正の文化」にも詳しく書かれるほどの建設的な音楽界の変わり種だった。海軍軍楽隊を振り出しに、陸へ上がって「東京市中音楽隊」を開業し、音楽劇(オペラ)を始めて大失敗、夜逃げをして岡山へ辿ついたのが明治30年の12月31日夜半。戸をたたいたのが「青葉茂れる」で名高い「師範」の『奥山朝恭』先生の宅だった。

ぶらぶら遊んでいるうちに思いついて、地蔵川の「赤羽根」が空き家になったのを借りだし『ドラム倶楽部』という看板をあげて、音楽好きの会合所を始めたのである。
(岡山盛衰記には『岡山ドリル倶楽部』として記録されている)
音楽好きの会合所といえば体裁がいいが、実は金持ちの不良息子の溜まり場をこしらえたのであった。

うまいコーヒーや簡単な洋食をだすし、口がうまいので、若いハイカラ連中が集まりだした。
その内、西洋音楽の手ほどきをやりだすと、熱心な愛好家が増えてきた。
その時分の先端ボーイだったのは、中島の播磨や西大寺町の武内なんかの若旦那達だった。
しまいには、合奏団を組織して(岡山高等音楽隊と称した)音学会などで公演するようになってきた。

金持ちの旦那ぞろいだから、「こんな辺鄙なところより中央部」「おなじやるなら、も少し気の利いたものを」などのことから「岡山ドリル倶楽部」が「岡山ホテル」になったのである。

 ....................どう? ラッキー...おもしろいやろ!!」

「おもろい、おもろい。
 金持ちのボンボンが寄ってたかって、コーヒーを飲みながら音楽談義に花を咲かせてたわけや...。
 そんでもって、みんなで出資して、たいそうハイカラなホテルまで建ててしもたんや!」

「単なる商売としてコーヒーが岡山に広がったんじゃ〜なくて、西洋音楽の香りをのせて提供されたってこと! ここ岡山でも、コーヒーがある風景は、ロンドンやパリのコーヒーハウスと同じように、文化や芸術の発祥に大きな役割を果たしたことがわかったね!」

「コーヒーの味そのものより、コーヒーが持つ独特の西洋文化の香りを感じて、ハイカラ人達に愛されたんでっしゃろな〜。コーヒー飲みながらワイワイ楽器を持ってはしゃいでいる若旦那達が目に浮かびますな〜」

「楽団までを構成したというから、名前は「ドラム倶楽部」ではなくて「岡山ドリル倶楽部」だと思うんだ。他に資料が見つからないから、本当はどっちか確信はないんだけど、僕は『岡山ドリル倶楽部』だと思いたい。

そして、岡山での本当の意味でのコーヒーハウス第一号は、この『岡山ドリル倶楽部』だと確信しているよ!」

 


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実は、音楽好きの加川は、評判を受けた楽団にばかり注力し、ホテル業はまったくのお留守状態
流行る訳もなく、岡山ホテルはあばら家同然となったのであった。

これを見て、事情のあった奥村朝恭氏が洋食屋の主人となることを決心し、岡山ホテルを引継ぎ
「洪養軒」として明治34年暮れに開業。女ボーイお艶さんの人気で大繁盛となる顛末は、前述の
岡長平さんの著書に面白おかしく書いてあるので興味ある方はぜひご一読を!!

さて、次回は、岡山で多くの方々の記憶に残る、コーヒー黎明期の忘れてはならない喫茶店を
写真入でご紹介いたします。どうぞ、お楽しみに...!