第32話「カフェから溢れる大正ロマン」



鴻の巣のメニューの裏の散文詩

「明治43年日本橋小網町に、<メイゾン鴻の巣>がオープン。
 日本で最初にカフェーと名のった店だったとされてます。」ラッキーの説明は続いた...

「メイゾン鴻の巣にはどんなお客さんが出入りしてたの?」

「明治大正詩史のなかで日夏耿之介(ひなつこうのすけ)は、こんなふうに書いてます...

珈琲舗が初めて出来、洋酒場がはじめて開かれたのはこの頃(明治43年)である。
メイゾン鴻の巣は文士の巣窟で、カフェ・プランタンには書家と文士のみ集まり、
カフェ・パウリスタの最初は文士か文学好きの会社員が常連であった... 
    

この中で出てくる文士というのは、「パンの会」という、いわゆるコーヒー愛好会を誕生させた人々の事を指してますねや。」

「パンの会?」

「そうパンの会。
 森鴎外が指導者となって明治42年に創刊された文芸雑誌「スバル」に参加したメンバーを中心として「三田文学」「新思潮」の同人らとそれに関係する芸術家たちが毎月メイゾン鴻の巣で会合を開いたそうや。」

「どんな人がいたの...?」

「北原白秋、石川啄木、与謝野鉄幹、小山内薫、永井荷風、木下杢太郎、吉井勇、高村光太郎、谷崎潤一郎、などなど、タカシでも知ってる名前のオンパレードやろ!」

「ほんとスゴイよね。今こんな喫茶店があったら、訪ねて見たいな〜。」

「カフェーといっても今の喫茶店とは違って、コーヒーが売り上げのメインではなかったようやな...。
 明治42年5月25日の読売新聞にこんな記事がでています...ちょっと読んでみて...

パンの会がツイこの間、両国のさる所で開かれた時は、ずいぶん珍妙な喜劇をやったそうだ。


 警視庁ではパンの会というのに、ギリシャ時代からの故事があろうなどと、そんな風流なところには気がつかぬから、これはテッキリ社会主義者の会合に違いないと早合点をまわして、開会当日の朝から会場の近辺へ角袖巡査を派すこと約50名、万一不穏な弁論や形成があればと、用意周到に固めていた。
 さて会員らはそんなこととは夢にも知らず、上田敏氏のフランス文学談など、いろいろ芸術談に花の咲いたのち、宴が崩れてくると鯨飲乱舞、ずいぶん騒ぎ立てて、よいころに散会した。
 馬鹿をみたのは角袖巡査で、散った会員の後姿を見送りながら、なんのこったと、すごすご引き上げたそうだ

 

 なかなか、おもろいやろ!
 この記事で解る事は、宴が崩れるほど鯨飲乱舞してるということで、これはメイゾン鴻の巣が単にコーヒーだけやなく、軽食や酒類をだしていたっちゅうことやな。
 事実、メイゾン鴻の巣の店主奥田は、駐仏公使館のコックとしてフランス料理を学んでいて、帰国してからメイゾンを開店した訳で、洋食はおてのもんやったわけやな!


 安藤更正は「銀座細見」で、

実際、洋酒の本当の味はプランタンとメイゾン鴻の巣で拡めたようなものだった

 と、書いてんねん。
 つまり、喫茶店っちゅうより、洋食屋かバーみたいな雰囲気やったらしいわ。」

「それじゃ〜カフェーと洋食屋の違いはどこにあるの、ラッキー?」

「ええとこに気がついたね。その違いとは...
 洋食屋には男の給仕、つまりボーイがいたけど、カフェーには女の子が働いていましたんや。
 このため、「女給」という新語ができました...という訳。
 ちょっと見てみる...?」そう言ってラッキーは壁に一枚の写真を映し出してくれた

「大正13年頃のカフェーの女給さんたちや...
 和服の上に割烹着でなく洋風の白いエプロンというのが、なかなかええやろ!?

 ここで文士たちは、フランスではその道の粋な飲み方とされ、通人の好むもっともしゃれた飲みものと教えられて、コーヒーにチョコレートやコニャックをいれて良く飲んだものらしいですわ...

 さて、メイゾン鴻の巣の客の中に、洋画家の松山省三がいました。
 彼は、美術学校の教授だった黒田清輝や岩村透が語るパリの自由な芸術家生活を夢み、絵筆を捨てて明治44年「カフェー・プランタン」を創設しました。

松山省三は

プランタンを始めた動機は、メイゾン鴻の巣のミックス
コーヒーの味わいにひかれたことが大いに原因している

と、奥山儀八郎氏に語っています。

カフェー・プランタンはフランス語で「春」を意味し、小山内薫が名付けたとされてます。
もちろん常連には画家、文筆家、俳優が多く、芸術サロンの雰囲気が溢れていました.....

 

「プランタン」はカフェーの第一号。

コーヒー豆はおやじが横浜まで買いに行ってましたね。
  
その頃横浜にイタリヤ人でコーヒー豆を売る店がありまして、

おやじはそこでモカとジャバとブラジルを買ってきて、

MJBとミックスして一杯十五銭で売ってましたね。

コーヒーにパリを真似たチキンカツサンド、

それからクラブハウス・サンドイッチもプランタンの名物でしたよ。                                   

松山省三の子、河原崎国太郎氏はこのように当時を振り返っています。」

「やっと明治の終わりから大正時代にかけて、喫茶店がインテリや芸術家の溜まり場となった訳だね?」

「そういうこっちゃ!
 しかし、プランタンは大衆離れした高級な店で、「カフェ・ライオン」同様、コーヒーももちろん出すけど、洋食に力をいれていた店で、大衆にコーヒー文化が普及するにはもう少し時間が必要やった...」


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目次

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大正時代の幕開けと同時に日本のコーヒー史上において重要な人物と喫茶店が登場します!
次回、日本コーヒー史上画期的な業績を上げ、コーヒー人のあるべき姿、理想とする人間像
及び後世喫茶店の原形を示したある一人の男の物語を待て!