第45話「岡山最初の喫茶店...?」  


『カフエー発祥の地 内山下思い出すまま...』

目に飛び込んできたこの見出しは「岡山巷談」にあった。

抜粋して紹介すると...

『岡山で最初のカフェーが生まれたのが内山下。栄町入口に大正2年、今城星宇、岡部柳盡、中塚一碧桜兄弟、辻濠雨、多田旭水、横山南山、杉原七面等、当時の俳人が発起して、店開きしたカフェー・パリーが、岡山カフェ第一号。ミルクホールは明治30年頃紙屋町にできたそうだが、幾何もしないうちにつぶれたそうだ。
草分けが内山下に誕生したためかどうか昔の内山下にはカフェーが多かったものだ。日赤裏の東雲、今の中電の角に相生カフェー。相生湯の隣り、戦災にあうまで内山下郵便局があったところにパーリスタ。こういったところが有名な店で青い灯、赤い酒にモダンボーイの鼻の下を長くさしたものだ。』
                 
「岡山巷談」:小橋基夫編著 株式会社岡山新聞社発行


「赤い酒...? カフェーとは書いてあるけど、コーヒーの文字が出て来ないね...?」

「そういえば、東京で最初にカフェーをなのったメイゾン鴻巣も、コーヒー専門店やなくて、軽食やお酒を出してましたな〜... このカフェー・パリーでも同じようなもんやったんやろか?」


 そう、岡山で最初のカフェーとはいっても、最初にコーヒーを飲ませてくれた店かどうか、確証はなかった。もう少し調べて見ると...

岡山文庫の岡山事物起源という本に、もう少し詳しい
カフェー・パリーの情報を見つけることができた。

『カフェー・パリー:大正2年9月、岡山市の内山下にカフェー・パリーが開店した。カフェーといっても実は西洋式酒場(バー)の第1号店で、5色の酒とお玉さんなる女給(ホステス第1号)でえらい評判をとった。』
   
「岡山文庫 岡山事物起源」:吉岡三平編 日本文教出版社株式会社発行より

「やっぱり、コーヒー専門店という訳ではなかったんや!
 お酒だけでなく、コーヒーも出したと書いてある資料はみつかったの?」

と、ラッキーに聞かれたのだが...
 残念ながらカフェー・パリーでコーヒーを提供したと記述されている資料は見つからなかった。しかし、多くの俳人の発起によって開店した経緯や、あの水野さんのカフェー・パウリスタと良く似ている名前カフェー・パーリスタなど、コーヒーに関係ありそうな香りはプンプンしているように思えた...

それより、カフェー・パリー以前の明治30年頃紙屋町にできたというミルクホールが気にかかっていた。そして、このミルクホールのことと思われる資料を岡山事物起源にみつけた!

『ミルクホール:明治40年7月、岡山市栄町の鐘撞堂のあたりに「広瀬ミルクホール」が開店した。
店内にはテーブルと椅子をおいてあたためた牛乳を出し、新聞や雑誌も読ませる喫茶店のはしりであった。
ココアに
コーヒー、シュークリーム、パン、アイスクリームなどを出したのも岡山での元祖であったが、惜しいことに3月ばかりでやめてしまった。』
       
「岡山文庫 岡山事物起源」:吉岡三平編 日本文教出版社株式会社発行より

「やったやんか! やっとコーヒーの文字が出てきたね!
 岡山の喫茶店はミルクホールって呼ばれていたんや!
 それにしても、雑誌や新聞、ココアにシュークリームからアイスクリームと、明治40年にしてはかなりハイカラなもんやね...!?」

「だけど、どうしてたった3ヵ月でお店を閉じちゃったんだろう...?」

「そりゃ〜、岡山には早すぎたんとちゃう...?」もっともそうなラッキーの意見だったが...

「もう少し、この広瀬ミルクホールについて調べてみようよ...どんなコーヒーだったのか、いくらで売っていたのか、なにか解るかもしれないよ...?」そう言って、新たな資料を捜してみたのだった...

『おかやま表町風土記:岡長平著』にも、広瀬ミルクホールが出ていた。

それからわかった事は、開業日が明治40年7月15日だったこと、そして、若夫婦でやっていた小ざっぱりした店であったこと、岡山のインテリ連中が利用していたことなどであった。

残念ながら、それ以上の事は書かれてなかった。
とりあえず、広瀬ミルクホールのことはこの程度であきらめて次へ進むことにした...

次なる目標として調査したのは、岡山で愛されてある程度存続し、文化的・歴史的影響を与えた喫茶店だ。以前県立図書館で紹介していただいた岡山始まり物語に「カフェー・ブラジル」の文字をみつけた。

そのぺージを開くと、意外にもそこに広瀬ミルクホールの文字があった。

同じ岡長平さんの著作だったので、おかやま表町風土記以上の情報は無いものと思っていたが、さらに詳細な広瀬ミルクホールの情報が記載されていた。

新たにわかった事は

明治40年7月17日の山陽新報に開店の記事が出ていたこと。
2階建ての新築の借家であり、2階が喫茶室で、風景の油絵がかかっていたこと。
アイスクリームがめっぽう高く25銭もしたが、おいしいと評判になったこと。
六高生や街の若旦那が利用していたこと。
閉店理由として、夫婦とも名高い社会主義者だったので東京へ護送されたため、という噂があったこと。

以上だった。
もう少し、このミルクホールで生まれた文化や歴史を調べたかったが、わずか3ヵ月と言うこともあり、これ以上の情報は見つけられなかった。
たった3ヵ月では、もの珍しがった新らし物好きが、通いはじめた程度だったのかもしれない。

さらに読み進めると、「カフェー・ブラジル」こそが、岡山において様々な歴史上の舞台となり、実質上の最初の本格的喫茶店として大正時代に登場したことを知ることができた。
 これから、さらなる調査で収集したカフェー・ブラジルの物語を紹介するつもりなのだが、その話に入る前に、もう少し岡山でのコーヒー物語をお伝えしなければならない...

私はある疑問を持っていた。

たしかに、数々の郷土歴史家の方々は岡山最初の喫茶店として広瀬ミルクホールを挙げておられるが、本格的とは言えないまでも、何らかの形で珈琲を提供していた店があったのではないだろうか?

明治3年に岡山で最初の珈琲飲みと宣言した大原利謙から、広瀬ミルクホール開店の明治40年まで、岡山で約40年もの長い間、コーヒーを飲むという文化が全く普及しなかったとは思えなかったのである。

その第一の理由は、明治24年(1891年)の倉敷までの鉄道(今の山陽本線)の開通である。

東京や大阪から、鉄道の開通によって様々な情報が入ったことだろうし、旅先で珈琲体験をした人もいたのではないだろうか?そんな交流が進んでいた明治時代、珈琲を提供しはじめた店があっても良いのではと疑問を持ったのだった。

珈琲を提供したのでは...と私が考えた最初の候補は、西洋料理屋だった!


一つ前

目次

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岡山最初の喫茶店は広瀬ミルクホールであった。確かにコーヒーを提供していた。
しかし短命に終わり岡山にコーヒー文化を提供するまでには至らなかったようだ。

岡山で最初に料金を取ってコーヒーを提供した店はもっと以前に存在していたのでは?
そんな疑問を持ったタカシがさらなる調査を試みました。はたして.....それは次回に!