第36話「津山洋学資料館」


さわやかな陽射しがまぶしい日だった。
私とラッキーは先日岡山県立図書館で教わった津山洋学資料館へ向けて快適なドライブを楽しんでいた。

「気持ちいい日だから高速を使わずに53号線を上がるよ。いいだろ?ラッキー...」

高速道路が出来て倉敷から津山までがかなり近くなったのだが、天気の良い日は何となくゆったりと走らせたかった。

「まっ、高速料金分おいしいお昼でもごちになりますわ!」といつものラッキー...

やがて、津山の駅を過ぎて橋を渡り、とりあえずそのまま鶴山公園の方へまっすぐ車を走らせた。
津山は久しぶりだったが、こっちのほうに公共施設がたくさんあった記憶があったからだった。

「どこかに看板が出てるやろ、もうちょっとゆっくり走ってや!」

「ラッキーこそ、よう見といてや!」

結局それらしい看板も見つからず、かなり北のほうまで来てしまった。

「しゃ〜ない、電話して聞いて見よ!」

「最初から聞いとけばええのに、もう...」

たしかにそうだった。聞いてみると全然違う方向だった。

53号線をそのまま津山インターチェンジの方へ向けて走らせ、目標のホテルを過ぎて左折をし、それからガソリンスタンドのある三叉路を左へ入ると右手にある...という説明だったと思うが、なかなか難しい場所にあるのである。



一応地図を載せておきましたが、近くから電話で聞きながら捜すというのが、よろしいかと思います。
しかし、しかし、あえてこの地図で迷いながら写真の洋学資料館を捜すというのも、また楽しいかも...?

津山洋学資料館

この建物は大正9年、妹尾銀行として建てられ、その後、第一合同銀行
中国銀行津山東支店として昭和48年まで使用されていたものです。 
神社仏閣風の外観で天然スレート葦の大屋根、内部はモザイクパーケッ
ト貼、腰はケヤキの玉目のあるものを鏡板として使用した本館とレンガ
造りの展示室からなる、和洋折衷の優れた建築技術を示す建物です。
写真・解説とも津山洋学博物館パンフレットより引用 

***問い合わせ先、地図はこちらです***


「おお〜、なかなか! ようわからんけど、なかなか味のある博物館やんか!」

そう、普通の鉄筋コンクリートの建物を想像していたものだから、妙に新鮮に思えたのだ。

「それにしても、ここに来る人なんかおるんかいな?」

なんとなくお寺のような、そんなに多くの資料が貯蔵されているとは思えないような、そんな雰囲気を感じたのだろう、ラッキーがこそっとつぶやいた。
たしかに、目的を持ってここまで捜して来なければ、偶然立ち寄るにはあまりに入り組んだ場所にある。
その上、外観から資料館と認識できるのは看板と入館料の掲示板だけであった。

格子戸のような玄関を入ると、薄暗い、昔のままの高い天井の部屋だった。

天井を見上げると、雰囲気のあるおしゃれなアンティーク風のライトが目に入る。

おしゃれなライト


正面右に受け付けカウンターがあり、150円の入館料を払った。

室内も自然光を優先したやわらかい光に包まれており、この建物とあいまって、いにしえの空気を肌で感じられる...そんな資料館が結構気にいった...

「そちらのドアから中庭を抜けた建物が展示場となっております。」

受け付けの女性の言葉を背に、私達は向かって左端からカウンター越しの資料室へ入った。

資料室

資料室での取材は後回しにして、まず展示を見てみようと光が差し込む正面のドアを開けて中庭へ出た。

右手に中庭を臨みながらわたり廊下を進むと、展示場へのガラス戸入り口が近づいてくる

明るい中庭から急に展示場に入ったものだから、とても薄暗く神秘的な印象だった...

しかし、その展示内容の充実ぶりには正直驚いた。

そして、自分の無知にも驚いた。

「岡山って、めちゃくちゃぎょうさんの偉い学者がいたんやな〜...?
 それも日本で最初の医学や化学、植物学の専門家ばかりやんか〜すごいな〜」
と、ラッキー

「いや〜、全然しらへんかったわ。知ってたのは適塾の緒方洪庵だけやった。」と、無知なわたし

しかし、岡山から世界に誇れる数多くの優秀な人材がこの時期に生まれていたことは紛れもない事実であり、現在の日本にとっても大変重要な時期であったことがよくわかった。
少なくとも岡山の方々には、ぜひ一度足を運んでいただきたい場所であります。

さて、目的の宇田川榕庵だが、大きなスペースを割いて数多くの資料が展示されていた。
あまりに多くの業績がありすぎて簡単に説明できないが、宇田川家3代の3代目であり、西洋の植物学、化学を初めて本格的に紹介した、たいそう偉い学者さんなのである。

手っ取り早く、いかにその業績が今の社会に貢献しているのかを伝えるために、一つの事例を紹介させていただきます

榕庵は見たこともない文字で綴られた西洋の化学の書物を、全身全霊を込めて読破し
日本語に訳して「舎密開宗」として残していますが、そのとき榕庵が訳した細胞
水素・酸素・窒素などの言葉は現在も使用されています。           

いかがですか?
日頃あたりまえのように使っている言葉も、その歴史をかいま見れば、多くのドラマを背景に持っている事が分かってきました。簡単にカタカナ表記をしてしまう現在の外来語に対して、榕庵の創造力に感動をおぼえませんか?
まるで活字印刷のような美しい榕庵の筆跡、画家のような植物の描写、学問だけでなくトランプまでにも興味を傾けた榕庵が、コーヒーにも興味を持ったことは当然のように感じたタカシでした。

「とはいっても、コーヒーの事に関する展示はないみたいやね〜...」

そう、残念ながらコーヒーに関する展示コーナーなるものは存在しなかった。

「しょうがない、ここまできたんだから、聞いて見よう!」

展示室を後にして再び資料室へ戻ったわたしは、受け付けの係の人に聞いて見ることにした。

 


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200年も前にわずかな情報をたぐり寄せるように学問を紐解いた洋学者たち...
酸素という言葉を考えながら、榕庵はコーヒーを傾けていたんだろうか...? 

次回、その真相が明らかになります!